他人を見下す若者たちの考察補完

はじめに
 私は速水氏のいう仮想的有能感という理論に納得ができないのではない。また、自分自身の耳に痛いから、批判的な立場を選ぶ内発的な動機になったというわけでもない。この『他人を見下す若者たち』全編の内容では、仮想的有能感を持つものたちの実際に触れるには幾分不十分な内容であると感じたからである。何故ならば、『他人を見下す若者たち』の欠点として、あまりにも全体像に終始し過ぎているきらいがあるからである。確かに、著者というフィルターを通して個々の事案について考察がなされているが、それは無機質な研究者としての立場からの視線である。著者自身が、現代の若者の心性について、共感的に理解できていないのではないのだろうか。つまるところ、『臨床的な研究内容ではない』という批判を浴びせたいわけである。よって、現代の若者の一人である自分自身を振り返るという形で、著者の意見について改めて考察し、臨床的要素を加算したいと思う。

 怒りと悲しみの感情
 仮想的有能感を強く持つ人間ほど、悲しみをあまり持たず、怒りやすいという言説について、私なりに考察してみた。速水氏は共感性のなさが悲しみを遠ざけ、また他者へと怒りを転化する要因となっていると考えているが、それは極論でしかないのではないだろうか。むしろ、私の考えは逆である。仮想的有能感を持ってしまう人間こそ、共感性という類のものを逸早く身に付けた人間ではないだろうかと思うのだ。
 速水氏の展開する論旨に、決定的なけちをつけるのならば、速水氏の研究はあくまでも現在の事象についての調査であり、その理論に時間軸がないということだ。ようするに、まったくもって時間性がない。つまり、現在仮想的有能感をもっている人物の過去についての洞察があまりにも少なすぎる。怒りも、悲しみも、本来全体的に研究するものでなく、個々の人生経験のなかで培われるものである。確かに、そこに何らかの方向性という傾向はあるだろう。しかし、怒りや悲しみの理由というのは、体験に起因するものであって、理論に起因するものではない。つまり、仮想的有能感から怒りが生じるのではなく、最初に感情があって仮想的有能感へと通じているはずである。仮想的有能感はあくまでも、感情という大海原の一部分でしかない。何故ならば、仮想的有能感はつまるところ、防衛機制の複雑な一形態ではないか、というのが私の見解だからである。