他人を見下す若者たちの考察補完

 防衛機制仮想的有能感
 仮想的有能感防衛機制でいうと、全体的な面では『補償』が最も近い。補償とは自分の弱点や劣等感をカバーするために、他のことで自分の長所を誇張して優越感を得ようとすることである。仮想的有能感によってもたらされる行為そのものは、『補償』のものと似ているといっても過言ではない。しかし、そこに至るまでの過程が問題なのである。Oくんの例にあるように、そもそもOくんは常に『逃避』という防衛機制を行っているという前提がある。『逃避』というのはいわゆる速水氏のいう無関心ではないかと私は考える。つまり、自存在の肥大によって仮想的有能感が強まるとともに、同時に他存在に対して不快感が生じるようになった。その不快感からの防衛機制としての『逃避』が日常化してしまったのではないかということである。
 『逃避』によって生まれるのは劣等感である。『逃避』という防衛機制が、自分を守るために行われているものであっても、負の要素があるのを無意識下で自覚しているために生じる劣等感である。『逃避』という防衛機制も当然、無意識の内に行われている。そしてその心的プレッシャーが高まると、他者を見下すことで自分の安定を図ろうとする。それは、現代の合理主義に伴って『合理化』に裏打ちされた思考である。この合理化こそ、仮想的優越感を感じる情動の正体ではないだろうか。『合理化』によって同時に『補償』が成立して優越感を感じているのである。『逃避』により生じた劣等感から、『合理化』と『補償』が同時に成立することによって優越感が生まれ、自身の安定を図るのである。しかし、速水氏の指摘どおり、その優越感が何の根拠もないことが問題なのであろう。
逃げる若者たち
 では、ここで『逃避』の話に移りたいと思う。上において仮想的優越感を生じさせる防衛機制として逃避を挙げているが、そもそも逃げるとはどういうことか。逃げる、とは逆説的に考えると、向かっていかないということである。極めて合理的な考え方といえるだろう。まず、逃避の根底に潜んでいるのは合理性である。これを押さえておきたい。
 次に、逃げるという行為はその合理性とは裏腹に、生産性がない行為である。逃げる、というのはいずれ対峙するべき先送りにする、延期という意味の逃げること。また、対峙することからすら逃げる、と大きく二つの段階で考えられるが、今回は対峙することから逃げる、という段階において用いるものとする。
 個性を重んじられて育てられてきた現代の若者たちには、逃げる格好の材料が常に供給されていた。それは、速水氏も述べているような、オンリーワン賛美の風潮である。自分は他人と違うのだから、ありのままでいいのだ、という基本思想である。この思想がもたらしたものが、『逃避』の防衛機制であるといえるだろう。私は私だから、という合理化さえすれば自分を肯定できるような逃げ場所が最初から社会として存在しているのである。つまるところ、オンリーワンの社会風潮が、『逃避』や『合理化』の防衛機制の下地となり、若者たちの仮想的有能感を肥大化させていった最大の原因とも考えることができる。そう考えると、この仮想的という言葉は、根拠のない自信や理由もないプライドを指しているのではなく、存在などしていない自分自身、つまり仮想的に存在していると思い込んでいる自分自身を指していると考えることも可能であろう。そもそも、守るべき自分などまだないはずなのに、個性という言葉に自分の存在を盲信し、個性という言葉だけ着飾って、ありもしない自分の仮想的存在を守っているのではないだろうか。そこにはもう一つの逃げが隠されているといえるだろう。自分がないことを認めたくないという逃げである。