他人を見下す若者たちの考察補完

 共感性と自分の揺らぎ
 私は共感性がなくなったのではなく、唯一無二の自分の存在を信じることが出来なくなったがゆえに、共感している自分にすら自分が持てないような、自信喪失した若者の姿が背景にはあるのではないかと思う。共感はある種、自分の個性を失い相手の感情を思いやるということである。今の若者たちは、それができなくなるほどに自分を見失うことに耐えようのない恐怖を感じているのではないだろうか。
 個性化許容が進むことで、若者たちは個性の限界を知ってしまったのである。というよりも、本当の意味での個性を失っていってしまったのである。個性というものは少数派でしか成り立たない。ゆえに、社会が賛成しているようなものには参画したがらない、反社会性、もう少し緩やかになると反道徳性といった立場をとらざるを得なくなっているのではあるまいか。つまり、少数派的な行動こそ個性であるという思い込みがその根底にあるのである。自分は他人と違っていい、という許容が若者の中で今、自分は他人と違わなければいけない、という脅迫的な葛藤に変わりつつあるのではないだろうか。仮想的優越感は、いわば行き場を失った自分というものの亡霊であるのかもしれない。存在していない、しかし存在しなければならない、かくとした自分自身。私は、若者たちの個性に怯えるような心情が、『逃げ』の若者を生み出したのではないかと考えるのである。

さいごに
 今回私は論旨も崩さないながらも共感性をもって書くことを心掛けた。速水氏の論に対して、少なからぬ反発を覚えた自分自身がいたからである。私も若者であるゆえの怒りだったのか、それとも若者というものに対して哀れみを感じたからなのか、理由は定かではない。しかし、速水氏の意見にも、自分の意見にも共感的に意見を貫けたのではないかと考える。しかして、私もまた現代の若者の一人であることを自覚するのである。