社会と平等

 命とは何か。

 この人類全てに生来課せられた宿題に対する、明確な答えは未だ存在しない。大切なもの。何にも変えられない最高の喜び。何とでも言える。

 人は命の平等とその神聖さ、不可侵さを叫び続けている。神という絶対的な宗教観を科学によって失った人類が求めた次なる神が、命という神秘だろう。そして人々は盲信する。命は平等なものであると。命こそ人々が望んで止まない、人類が授かった絶対の平等だと。

 確かにそうだろう。

 社会という世界を受け入れる前の命は誇るべき絶対の平等である。

 だがしかし、胎児として生を受けた瞬間から、命はその平等性を失う。社会的人間になる為に、人類が作り上げた文明という不条理を受容する為に、人々が信じ続けた平等は失われる。あえて言おう。社会的平等は存在しても、真の平等など単なる夢想に過ぎない。平等なものがあるとすれば、自身が得た命に対する質問だけだろう。または、平等とされる生が終わったあとであろう。

 その上で、考える。何故人々はありもしない平等という幻想を渇望し続けるのか。平等というのは一種、個人の尊厳の剥奪と埋没によってしか得られない側面を持つ。第二次世界大戦時、軍国主義日本が徹底した皇民化教育は、過激な宗教が信じる神の存在を国家レベルで首肯させた行為に等しいが、平等というのは最悪、その行為と根源を同じにしている。なら平等というのは何だ、という話になるが勿論、平等が含む毒を中和する為に、自由という、またしても存在しない概念が生まれた。思想の自由、言論の自由等、人々が生来持つとされる自由は、法律や憲法を越えるとその効力を失う。

 自由という言葉自体が、自由という言葉の定義を否定しているからだ。自由という言葉は自由を束縛する。自由という言葉がある時点で、それは自由であることを拘束する。故に自由など本来は存在しない。しかし、自由と平等はこの二つが並んだ時、お互いの欠片を補い合うように、両者が持つ矛盾を両者で打ち消しあう。その相乗効果で生まれた理想こそ我々がよしとする、現在大多数が信奉する価値観だろう。曰く、命は尊い。生きることは意味がある。

 だがここでまた考えた。我々は生きる権利を与えられているのか、生きる義務を与えられているのか、と。日本国憲法が与えた生存権という「生きる権利」は人間社会で生きる上での最低限の権利が含まれている。しかし、生きることは権利だとも義務だとも言っていない。死ぬことも平等である。死ぬことは果たして義務か、権利か。生死に関しては、与えたものが定かではない以上、それが権利か義務かを問うことは出来ない。だが、それが権利か義務かを自分自身で決定することは、出来ると信ずるものである。では我々が生きる社会は権利を求めているのか、義務を求めているのか。

 社会が一個の生物または神でない限りその答えを出すこと、出させることは適わないだろう。

 資本主義の原理でも、社会主義の原理でも、極論すれば人類が文明を捨て去るか人類の文明が崩壊するかのどちらかを選ぶ以外にしか、自由と平等は絶対に存在し得ない。自由と平等はそれ自体が矛盾しているのと同時に、両方の実現も不可能という二律背反も背負っている。端的に言えば、実現不可能な夢でしかない。故に理想でしかなく、現実を見つめる材料としては荷が勝ちすぎている。

 では我々は何を信じて生きていくのか。

 信じないことを信じろとでもいうのだろうか。その動機を模索するために思考した自分の考えを、忌憚なきままに述べたものを、多少長くなった(いや、なりすぎた)が、前文とする。