生命の増殖とカンブリア
生命の多様性という言葉を遡って最も想起するのが容易であるのは、その現在に至る進化の過程において不可思議と特異性に満ち、また「生命のビックバン」と呼ばれるほど爆発的な生態系の変貌、増加に至ったカンブリア紀ではないだろうか。
アノマロカリス、サロトロケルクス、ピカイアなど、実に奇怪な生物を生み出した原始的で、かつ生命力が暴走したかのように激しく変貌を遂げたまさにハルキゲニアな生物の命は、我々の科学など及びもしない暴力的なまでの生命力を誇示しているのだ。
それも、5億7000年前という昔に。
現代は平和な世界の元、生命の進化ですら平穏を感じさせる。
だが、ここに今ある生物のDNAは、もとを辿ればこのカンブリア紀の海に発生し、そして生き抜いたもとたちの延長線上にある。
人間のDNAの情報でさえも、その系譜は爆発的に生命が躍動したカンブリア紀の海へと到達し、この時代に発生した多様性のほんの一タイプに帰結することになるのである。
そこにあるのは学術的な価値でも、人間の自己満足的な本質への探求でもない。
ただ爆発的としかいいようのない変異性、言い換えれば変化し続けるDNAという存在の恐ろしいまでの無限性なのである。
そもそも、DNAという分野は、科学的であると同時に一つの宗教として成り立つほどの毒性を孕んでいる、といえるのかもしれない。
科学史への問い6
科学史という分野は教育的学問であるという所感を持つ。
本来、科学というのは一つの事実であり、科学という分野における絶対的な正解である。
しかし、その絶対的すぎる性格ゆえに、理解しなければいかない側がついていくことができないという、独走的な性質をも同時に孕んでいるのである。
ゆえに、理解させる、育てるということに重きをおいた教育という概念が、科学という分野の仲立ちをしている格好となっているのだ。
それが科学史であり、理解のための科学である。
当時の社会の成り立ちや、文化を理解することが理解のための科学にも繋がるのだろう。
いわば、正解の動機付けである。
科学的思考がもたらす唯一の答えにたどり着くために、その経緯を話す。
それは、一つの単語に包含されている、
その単語ができるまでの経緯に等しい。その経緯があって、初めて納得する。
納得という、理解する段階までに極めて必要とされる受動的でない学習ができるのではないだろうか。
物事の成り立ちを知るということは、最終的にこの宇宙の成り立ちを考えることに繋がる。
その経緯を知ることは、その理由を知ることに繋がる。
つまり、原初への疑問を呼び起こすというプロセスに沿った行動なのである。
だからこそ、科学史を知ることは、学問的な学問でないのかもしれない。
しかし、だからこそ、その学問を知るという行為に繋がるのであろう。
科学史への問い5
また、実例を取り上げるのは、プロセスそのものを教えることができるという点でも教育的価値があるいえるだろう。
理論はともかくとしても、考え方という点においては教えることが困難であるし、個性という壁で割り切られてしまう。
経緯に基づいてこういう考えからこういう考えに至った、という発想の転換を子どもに伝えるという意味合いにおいても科学史は大きな役割を果たすといえる。
理論だけでなく、理論体系をもその範疇に含むということは、考え方そのものの幅を広げることができるのではないだろうか。
方法論そのものを実例に基づいて学べるのである。
科学においてはとにかく理論の暗記が重視されてきた傾向にあったが、科学史はその考え方にさえメスを入れることができる試金石としての役割をも果たせるであろう。
科学史への問い4
さて、ここまででそもそも理科とは理解のための科学におけるその一部なのであるという考えに到達した。
理科にとって本来大切なことは、学問の内奥ではなく理解することにあるのだ。
科学史という分野はまさに理解するという観点で論ずると、非常に大きな役割を果たすといえるだろう。
科学史というものは、共感的学習の一種であると考えることができる。
実験で実際にその理論を行うことによって、理論を発見した科学者と、その理論を通して繋がることができる。
つまり、科学者と理論を通して繋がることによってより理論を理解しやすくなるという考え方、それが共感的学習である。
なぜ共感が理解に有効なのかは無論、言うまでもないが、理科における共感の特徴は、同じく理論を発見したことによって生まれる共感という、理論共有型であることだといえるだろう。
そして、自分自身もその理論を実験することによって、体験的な共感も得ることが出来る。
知識的な記憶だけでは留まらない、生きた記憶として保存できるのである。
科学史への問い3
しかし、それは理解するという観点においてはいささか困難な事象であるということは否めないであろう。
それは小学生に専門書を読めといっているのと同じことだ。
記憶は可能かもしれないがそれは機械的なものでしかない。
理解あっての記憶ではないのだ。
つまり、学問という概念を現実に使用するにあたり理解という、避けては通れない関門が存在しているということがいえる。
ここに学問的な事柄と現実的な事柄との衝突があるのだ。
教える側は必然として科や科学という概念を脳に叩きこまなければならないが、子どもたちはそうではない。
科学を学ぶといっても厳密なる科学を学んでいるわけでもない。
そう、教師というある種の枠内に収められた科学を学習しているのである。
つまり、子どもたちが学んでいるのでは科学ではなくて、教育学という選定機関を潜り抜けた科学なのである。
そしてそれは、科学ではなく理科なのである。
科学史への問い2
科学という学問が、学問全体を通してどのような位置に位置付けるべきかを考え、私自身の科学という学問に対する位置づけを明確にする必要がある。
科学は、あくまで「学」という大きな概念の一分野に過ぎない。
より根源的な意味での学問は、根源的であればあるほど、「学問」ですらなくなる。
私個人は「学問」という系統から逸脱して自ら考える力を養う力を思考力と呼ぶものではないかと考えている。
つまるところ、根源的な問いに対する解答の一つ、それが科学ではないだろうか。
科学というものはそれ一つで独立しているものでなく、あくまで学問の系統樹のなかの分化された一つの枝に過ぎない。
学問というあらゆる問いに対する一つの方法に過ぎない。
例えば、哲学は科学よりももっと根元にある学問であるといえるし、生物学は科学という枝のそのまた枝の一つであるといえる。
学問という大きな枝から始まった部分、それを「科学」、学問という流れに囚われない思考土台そのもの、それを「科」という風に差別化することから始めたい。
科学史への問い1
歴史という時間軸は相互方向にあるものではない。
常に未来から過去に向かって走らされている時間軸である。
過去という、過去においては現在という時点において未来を空想することと、未来から過去を空想することとは全く別個のものであるという認識が必要とされるだろう。
ただ、法則的に考えるならば過去は現在という時間軸に必ずしも繋がるものではないが、現在は過去と繋がっている。
このことから、現在という時点を考えるにあたって過去というものは切り離せないものといえる。
人は生まれた瞬間から時間の流れを生きる。
時間の流れを生きる限り、過去という時点を積み重ねていく。
その積み重ねた時点は一本の人生という線になる。
これで人を構成している要素のほとんどが過去であるといえるだろう。
そういう意味では、厳密な現在などは存在しない。
現在を認識した時点でそれは過去となるものだ。
ではその未来の一点から過去を俯瞰することにはどんな意義があるのだろうか。
現在に活き続けている法則や発見を通して繋がることにはどんな教育的価値が含まれているのだろうか。