情報と科学について1

さて、現代において教育以上に影響力を誇り得るものが実は存在している。我々は気付かないままに、その影響を受け続け、ひいてはあたかもそれが真実であるかのように向き合ってしまっている。マスコミュニケーション、その最も日常的なものである、テレビなどに。我々は普段からテレビという存在を当たり前のように受け入れているが、そもそも何故テレビで放映されているという現実が、そんなにも説得力を持つのだろうか。

 私は筆者の語るネオ科学というものが、実は情報に対する安心感から生まれるものからうまれているのではないかと感ずる。例えば一つの番組を作るにしても、制作者側はある意見やその反論、または矛盾する点など、様々の議論をまとめる集大成として、我々にその番組を提供している。つまるところ、その提供するに至る過程というものは、決して受け手は味わうことができない。そう、結局のところ生み出される過程やそこに至る疑問ではなく、ただ原理としての情報のみが与えられているのである。安楽的な思考停止の病は、情報に対する懐疑性が欠落していることから始まったのではないだろうか。

 最終的には情報という単位で全てを分解することができるだろう。もっとも、これは何も理科教育、あるいは教育に限ったことではない。そもそも、言語で何かを伝える行為というものは、その性質上、言語が通じる時点で相互作用性が発生するという性質を持っている。つまり、情報としての認識が行われている点で、両者の間には何らかの共有理解が発生しているのである。


 ネオ科学と似非科学:そんな社会状況の只中で混迷を続ける理科教育であるが、同時に蔓延っているものとして似非科学が挙げられるだろう。というよりも、科学的根拠の正しさを追求しないネオ科学が生み出してしまった科学が、似非科学ともいえる。つまるところ、科学的知識の欠落によって、あたかもそうであるように錯覚させられてしまう「似非科学」の下地を作ったのは、ネオ科学ではないか、ということだ。

 筆者はネオ科学的なものとして、科学的根拠よりも授業としての楽しさや、好奇心をいかに強めるかに重点をおいたものとして挙げている他に、科学体系ではない知識で描かれているものを挙げている。法則性を見出すことと、法則性を知ることは異なり、自分自身によって思いついた仮説を実際の知識と戦わせることが、正しいあり方ではないだろうか。つまり、そこにある情報をそのまま鵜呑みにしてしまう、そういった疑問そのものの欠落が現在の科学への無関心を引き起こしてしまっているのではないだろうか。つまり、「仮説」を生み出す余地というものが、「ネオ科学」には欠けているといっても過言ではないだろう。だからこそ、似非科学が蔓延る世の中になってしまっている。情報化社会といいながらも、情報と戦う姿勢をなくしてしまった。いや、その情報の真偽を確かめることすら考え及ばないほど情報というものに依拠している社会。そういうものの縮図として現れているのが現行の理科教育ではないだろうか。

 しかしそもそも、我々はいかなる事象に対して疑問を抱き戦ってきたのだろうか。情報と仮説という観点から理科教育という分野を鑑みるにあたって、前提からはずせないものが一つある。それは、間違いなく科学主義というものと自然教育というものは、文化的な価値観に左右される部分が大きい、ということである。次に、科学教育と自然教育がどう違うのか、という点について考えていきたい。