情報と科学について2

 自然観:筆者は著書の中で、そもそも科学に関する教育と自然に関する教育は分化して考えるべきである、と述べている。何故ならば、科学教育というものは西洋に端を発し、すべからく自然観自体が西洋文化にほだされたものであるが、日本独自の自然観に基づかれたものとは一線を画しているからである。

 それは科学親和性という点で考えるにあたっても非常に興味深い観点である。科学親和性とは、科学に対して予備知識のない状態で、科学的な思考が受け入れられるかどうかという観点である。極端な例を出すと、熱心な宗教の信仰者で「全ては蛇神様によって決められている」と狂的に信仰している人は、科学親和性が低いということになる。だが逆に、熱心な科学主義者で、「全ては科学によって解明できる」という科学絶対主義者は親和性が高すぎるということになる。つまり、科学という一つの考え方に対して、どれだけ理論的な理由付けを与えられるか、ということである。

 その点、実は日本と西洋においては非常に興味深く異なっている。しかも、宗教的な側面での科学において、一番顕著に現れている。宗教に科学的真理など存在しないといわれる方がいるかもしれないが、それは早計にすぎない。確かに、科学的な普遍性は存在しないかもしれないが、その宗教性によって思考の科学性、わかりやすく言い換えると論理性を計ることはできるのである。信仰における論理性は、以外に宗教ごとに、そのバックボーにおいて左右されているのである。

 だがそれだけでは民族性に対して宗教をこじつけているだけだ、という指摘があるかもしれない。宗教を信仰してない人には関係がない、とおっしゃる方もいるかもしれない。だが、宗教は現実の生活に結びついている。例えば、礼儀や記念日がその最たるものだろう。信仰していようがいなくとも、確実に宗教に基づく論理性は存在しているのである。

 例えば、キリスト教は根源を封じるという宗教特性がある。これは古来の哲学者は科学者であることが多かったという点にも関連している。つまり、神を始めと考え、その始めを定めることで、科学の原点ともいえる哲学的な問いを殺す役割をしているのである。その点、日本の宗教は、死後の世界に関して問われることが多い。これは神道というよりは仏教的な側面が強い考え方であるが、つまるところ、死後に対しての不安がまずあったのである。

 これがおそらく自然観にも絶大なる影響を与えている。存在を分析し、原始を暴く科学的思考に基づかれた自然観と。死後を考え、自然すらその世界の範疇であると認識する、全体調和的な思考に基づかれた自然観。つまり、まず最初に科学を考えるにあたって、そもそも日本的な発想なのか、それとも科学そのものなのかを考えなければいけない、という問題であろう。日本の科学はこうあるべきなのか、それとも世界の科学がこうあるべきか、という対立的疑問を認識した上で、科学という問題を考えるべきなのではないか。