情報と科学について4

教育と疑問:

つまるところ、現在の理科教育法の論議そのものが茶番であるといえるだろう。科学が人間の一方的な営為に過ぎないということを考えることなしに、そもそも科学も自然すらも捉えることはできないのだ。抽象的理解能力が高いとされる大人でさえそうなのだから、子どもにそんな発想が思いつくはずがない。疑問を持つのには知識がいる、知識を使うには学習がいる、学習するのは先生がいる。根源に向けることなく、なあなあの回答を用意するしかないのだ。ならば、詰め込み教育と非難されようが、「疑問を持つための科学教育」をしなければならないだろう。科学的な楽しさというものは、苦難や苦悩の果てにしかない。つまるところ、本当の科学教育をしたければ、理科教育というものを捨て去らなくてはならなくなるのだ。ある種の英才教育的な側面として扱われるべき問題になるのである。

美術や音楽といった芸術的な側面、あるいは哲学といった特殊な学問は、学校で教えなくてはいけない事柄ではないが、科学もそれに近いものがある。つまり、子どもに必要なものは「本当の」科学ではなく、「本当の」科学に至るための知識体系なのである。知識がなければ、そもそも疑問など持ちようがないのだから。


理科と理科:

 理科教育の理科とはそもそも何であるのか、ということを焦点としてまとめとしたい。つまるところ、理科とは総合的な学習ということである。考え方の素地を身に付ける、つまるところ「科学」ではなく、「科学的思考」を身に付ける学問ではないだろうか。既存の科学で事象や現象を考えていくのではなく、「自分で」その情報を言語によって分解していき、解体し、理解する。現存を科学ではなく、「論理性のある」思考。それが、理科で教えていくべきことなのだろう。

 だからこそ、自然の解釈は何個あってもいい。真実を求める必要もない。科学が絶対だと思う必要もない。そんな柔軟な発想に基づかれた考えが生まれ得るのではないだろうか。自由な発想というのはなんでもかんでもいい、自分が正しいと思う意見なら何でもいい、といった勝手気ままな自由意志に基づかれたものではない。その発想には、客観的で論理性のある意見ならば、という注釈がつけられるのであろう。実証性、客観性、論理性という三つの絶対条件のなかで、実証性の部分だけが自由なだけ、そういう分野が理科教育ではないだろうか。

歓びと苦しみ:

 理科だけに関わらずあらゆる学問においてであるが、考えるという共通作業を誰かと分かち合えているということが確実にいえる。その考えがあるということは、自分以外にも誰かが考えた足跡があるということであり、その足跡を見つけること、あるいはその足跡に自らの足跡を重ね合わせていけることが楽しさでもあり、苦しみでもある。それは始まりの足跡を付けた人が偉いというわけでも、その次だったから偉くもなんともないというわけでもない。ただ、誰かとその足跡を踏めているという事実が素晴らしいのである。多少不恰好な足跡になっても、歪な足跡になっても、ほとんど重ならない足跡になっても。自分の力で踏み締めるということが大切なのであり、必要なのではないだろうか。
 
 それは決して足跡にどれだけ似ているかを競うことでもないし、その足跡の存在を否定することでもないし、無論その足跡を踏めないからといって罰せられることでもない。ただ、その考えを通じて自分でない自分を見つけることができる。そして、自分の中で新しい世界を創っていける。そんな風にして足跡を刻ませこと。何億人もの人々が踏み締めていった大地に、足を踏み入れさせること。それが、理科教育ではないではないだろうか。