学習指導案「やまなし」1

1. 日時 2008年 2月30日(土)10:50−11:35
2. 学年/組 6年2組
3. 単元名 「作者と向き合える読者になろう」
4. 教材名 『やまなし』(宮沢賢治作 光村図書6年上)
5. 教材観

○作者に沿った読み方、雰囲気を味わう読み方、読者的視点からの読み方。


『やまなし』は宮沢賢治によって執筆された童話である。宮沢賢治の世界観、思想が色濃く反映され、「クラムボン」や「イサド」に代表される独自の単語が登場するため、本作を真に理解するには宮沢賢治という文学者についての知識が求められる。

『やまなし』という教材を用いた多くの授業において、大別すると三つの方針に基づた、授業構想が練られていると考えられる。一つは理解するための授業であり、『やまなし』という作品を理解するために、宮沢賢治という人物を理解することを重視するという授業である。二つ目は、雰囲気を味わうための授業であり、曖昧な認識のまま好きな表現を挙げて、児童それぞれの好きな表現を書き出して、どこが気に入ったかまたその理由を言い合うなどする、感性を重視する授業である。三つ目は、雰囲気を味わいつつも、どうこの作品を児童自身が解釈するかを様々な意見を参考に考えながら、構造的にどういうことが考えられるかを分析する解釈を重視した授業である。

 この作品を宮沢賢治という人物の背景を知らないままに理解しようとするのは非常に困難である。つまり、作者を知ることによって、作者の意図を理解することができると考えられるだろう。まず、この作品の読み方として、作者の人生や思想を踏まえた上での読み方が一つ上げられる。しかし、このような作者に沿った読み方はあくまでこの作品を理解するための読み方であって、この作品の表現の解釈を自由に楽しむための読み方ではないといえる。それは宮沢賢治という作者の影を通して作品と繋がる読み方であり、作品を自分なりに自由に解釈する読み方と異なる。宮沢賢治の作品だからという先入観や固定観念に合わせる形で作品を読み、表現を吟味することなく一方的に解釈してしまう。「正解」を求める読み方になってしまう危険性がある。

 かといって、理解する必要がない、つまり「正解」がないのが正解である、とある意味では逆接的な限定となる読み方が自由な読み方だといっているわけではない。個々人が思ったこと、感じたことを無加工でそのまま書かせて見せ合うことも必要であるが、そこで止まると単なる感想となってしまう。自分の意見を言葉にならない抽象的な感情のまま書き出すのは、作品を味わったとは言えず、丸呑みしただけであるといえよう。作品を噛み砕くこと、咀嚼すること。そして自分の言葉で言語化して初めて作品を読んだことになるのではないか。それは作品によって左右されるものではないはずである。

 一方、読者的視点からの読み方では、宮沢賢治の物語という視点ではなく、『やまなし』という作品として。あるいは作者を通してではなく、作者の存在を感じながら筆者を対話する形で主体性を持った一人の読者として、作者の表現を咀嚼し、解釈することができる。ただ読み流し、雰囲気だけを味わうのではなく、自ら解釈者となってどんな世界が描かれているのか、この作品のテーマは何なのか、児童自身の答えを見つけることができる。児童自身の解釈の手助けとして、宮沢賢治という人物の背景という情報があるのは問題ないのである。人によって様々な解釈のできる『やまなし』だからこそ、作者の考えを読み取る受動の読者ではなく、作者の考えを元に児童自身の考えを創造する能動の読者として、向き合っていくことが必要ではないだろうか。

『やまなし』は、その難解さと独自性ゆえに、読者としての態度を育てるという点では、非常に適している教材であるといえるだろう。


○作品の世界観とその構造について


 『やまなし』は、谷川の情景を二枚の青い幻灯として、蟹の親子が見る生き物たちの世界が描かれた宮沢賢治の作品である。春である5月のパート、冬である12月のパートの二部で構成されており、独特の情景描写で幻想的な世界が描かれている。物語を構成する文章は、ほとんどが情景描写と会話文であり、説明的な文章をほとんど排除することによって、極めて幻想性の高い文章として描かれている。比喩や暗喩もふんだんに用いられ、作品世界の雰囲気を視覚的な映像として美しく魅せるのに一役かっている。また、「かぷかぷ」「つぶつぶ」など擬音を散りばめることによって、動きのある柔らかな音を読者に伝え、聴覚的にも美しく感じられる。

 透明感のある色彩と無機的な生命感で表現された谷川の世界は、対比的な構造を多く用いることによって、厳然たる迫力を持って読者に突きつけられる。例えば、春である五月と冬である十二月の対比。生きるということと、死ぬということの対比。白と黒の対比。月光と日光の対比。など、様々な対比的要素を本文中に見出すことが出来る。

 しかしいずれの要素も、はっきりと対比的な構造として描かれているわけではない。何度も読み返していく内に、対比して描かれている要素があることがわかることができる。しかし、それはあくまで解釈の一つであって、物語の主題にまで昇華できないのが、『やまなし』という作品の独特さである。要素を選ぶことによって、物語の意味自体が移り変わってしまうのだ。

 例えば、五月の最後の文末と十二月の最後の文末から、「かばの花」は死を象徴し、「やまなし」は生を象徴していると解釈したとしよう。その考えに基づいて、5月は生命の死を描き、12月は生命の生を描いていると解釈したとする。それはどれだけ普遍性があったとしても一解釈にしかなり得ない。「やまなし」に物語の意味があるのではなく、読者自身が物語の意味を求めようとするから「やまなし」の一解釈として意味が生まれたにすぎない。故に読者の視点によって解釈の方向性は変わらざるを得ない。何を中心に見るのかが変わると、物語の意味自体が変化する。そこに読者としての試練と自由が、同時にあるのではないだろうか。そして同時に知識的な理解と、構造的な理解、共感的な理解を上手く組み合わせて、児童自身の独自の割合による解釈が必要となってくるのである。